個人的に、
諦めることは挑戦することよりも恐ろしいと思っている。
諦めることがあんなに辛いことなんて、
自分も経験するまで知らなかったけど。
でも、今日気付いた。
というか、思い出したことがある。
「諦める≠挑戦する(背負い込む)」ということ。
これは昔逆のパターンで(?)気付いたこと。
つまり、「挑戦しないってことに逃げて、
諦めることを必然的になくすのはよくない」という。
なんとなーく、今回は逆だ。
何でもかんでも背負い込んで、やろうとしてもだめだ。
それは「諦めないこと」とは結びつかない。
…これは自分自身に言いたい、今必要な考え方。
だが、それとは別にあくまで自論の内に思うことは、
「諦めないっていうのは、妥協じゃない。」
私が言いたいのは、妥協じゃないんです。
そもそもなんでこんなことを言うのかの経緯を知らないと、
意味不明な戯言にしか聞こえないと思いますが。
とにかく私は、(当たり前だが)妥協させたくない。
ただ、「諦めない」っていうのは、
選択肢・媒体が色々あると思うから、それを教えてあげて、
諦めない方向を決めなおしてもいいと思うの。
夢があるなら「今」に固執しなくてもいい、とか、
そういうことを言うのは反則なのか。
本人が決めたことを尊重するのが、一番正しいのか。
…そもそも、(だんだん熱が上がってくるw)
人なんて受動から始まるものだと思うのです。
それが能動的になるには、色々な要素が必要なんだよ。
個人的には恐怖なんかはかなり人を成長させる鍵だと思う。
でも、恐怖(とかなにかしら個々人の成長の鍵になること)は、
自分で作るものに限らないと思うのね。
他人がいるから起こることだと思うのです。
つまり「他」なくして
受動から能動への転換なんて生じないと思う。
でね、受動的な人のささやかな意思を尊重するのも大切だけど、
選択肢を広げてあげた上で意思を持たせないと、
無理が生じることもあるじゃないか。
「受け身なあの子が、こんなこと言ったよ!」
「いいね、じゃあ本人がそう言うならそうしよう!」
本当にそれは“受け身なあの子”にとっていい方法?
本人が言ったことが全てか。
その選択肢しかなかったからそれを選んだだけだったら?
…それは、諦めじゃないのか。って。
で、“あの子”にも、
あるベクトルでの諦めを指示していないか。って。
(これは言い出したらきりが無いから黙るけど。)
話がごちゃごちゃしてきたけど、
・諦めて欲しくない(当たり前)
・ただ、諦めない方向をまちがえてほしくない
→それを訓えられる・言えるのは「他者」。
ひとつ気をつけるべき事は、
私にも同じことが言えるということ。
諦めない方向を間違えたらいけない。
私が求めているのは、納得のいく選択。
だから、説得するようなことになってはいけない。
…ということかな。
明日は午後一で大事なアポがあったのを忘れていた。笑
微熱が下がらないし、早く寝なくちゃ。