2010年2月16日火曜日

No equal ONLY尊重

個人的に、
諦めることは挑戦することよりも恐ろしいと思っている。

諦めることがあんなに辛いことなんて、
自分も経験するまで知らなかったけど。

でも、今日気付いた。
というか、思い出したことがある。

「諦める≠挑戦する(背負い込む)」ということ。

これは昔逆のパターンで(?)気付いたこと。
つまり、「挑戦しないってことに逃げて、
諦めることを必然的になくすのはよくない」という。

なんとなーく、今回は逆だ。

何でもかんでも背負い込んで、やろうとしてもだめだ。
それは「諦めないこと」とは結びつかない。


…これは自分自身に言いたい、今必要な考え方。



だが、それとは別にあくまで自論の内に思うことは、
「諦めないっていうのは、妥協じゃない。」

私が言いたいのは、妥協じゃないんです。

そもそもなんでこんなことを言うのかの経緯を知らないと、
意味不明な戯言にしか聞こえないと思いますが。

とにかく私は、(当たり前だが)妥協させたくない。

ただ、「諦めない」っていうのは、
選択肢・媒体が色々あると思うから、それを教えてあげて、
諦めない方向を決めなおしてもいいと思うの。

夢があるなら「今」に固執しなくてもいい、とか、
そういうことを言うのは反則なのか。

本人が決めたことを尊重するのが、一番正しいのか。



…そもそも、(だんだん熱が上がってくるw)
人なんて受動から始まるものだと思うのです。
それが能動的になるには、色々な要素が必要なんだよ。

個人的には恐怖なんかはかなり人を成長させる鍵だと思う。

でも、恐怖(とかなにかしら個々人の成長の鍵になること)は、
自分で作るものに限らないと思うのね。

他人がいるから起こることだと思うのです。

つまり「他」なくして
受動から能動への転換なんて生じないと思う。

でね、受動的な人のささやかな意思を尊重するのも大切だけど、
選択肢を広げてあげた上で意思を持たせないと、
無理が生じることもあるじゃないか。

「受け身なあの子が、こんなこと言ったよ!」
「いいね、じゃあ本人がそう言うならそうしよう!」

本当にそれは“受け身なあの子”にとっていい方法?

本人が言ったことが全てか。
その選択肢しかなかったからそれを選んだだけだったら?

…それは、諦めじゃないのか。って。

で、“あの子”にも、
あるベクトルでの諦めを指示していないか。って。
(これは言い出したらきりが無いから黙るけど。)



話がごちゃごちゃしてきたけど、
 ・諦めて欲しくない(当たり前)
 ・ただ、諦めない方向をまちがえてほしくない
 →それを訓えられる・言えるのは「他者」。

ひとつ気をつけるべき事は、
私にも同じことが言えるということ。

諦めない方向を間違えたらいけない。
私が求めているのは、納得のいく選択。

だから、説得するようなことになってはいけない。
…ということかな。


明日は午後一で大事なアポがあったのを忘れていた。笑

微熱が下がらないし、早く寝なくちゃ。