2011年1月9日日曜日

「家族」にこだわる理由

家族社会学、ってなに?

と聞かれることが多々ありますが、
とりあえず、家族を軸に社会学するんです。


私は「家族」という響きに、
かなり強い憧れがある方だと思います。

学んでいて初めて知ったのですが、
家族は象徴やイメージと言ったものでしかなく、
ひとつの「概念」にすぎないそうです。


私は、家族というものは、
どこかに存在すると思って生きてきました。

お父さんと、お母さんと、兄弟姉妹がいて、
みんなで食卓を囲んで、
笑顔が絶えなくて、なんでも話せる。

そういうコミュニティを「家族」と言うんだ、
と思い、ずっとずっと憧れていました。


実際は、父親は仕事でほとんど家にいなくて、
母親も趣味に仕事にと忙しい人で、
自分は習い事とその練習の毎日。

苦ではなかったけど、
自分の描く「家族像」とは全然違いました。


車が新しくなったとき、
家をあたらしく買ったとき、
「ものの豊かさ」に心は追いつけなかった。

家族全員で車に乗るなんて滅多に無くて、
引っ越しの時も父親は海外に居ました。

母親が、大きなソファの位置を、
ひとりで変えようとしている姿を見て、
なんだか、どうしようもなく寂しかったです。

弟とも何年もまともに話していませんが、
行動はよく似ているもので、
家に居る時はお互い部屋から一歩も出ません。

母とはここ何年か仲がいいのですが、
父や弟と同じ空間にいると、緊張します。


これが「私の家族」です。


家族が連邦国家みたいになってることは、
恥ずかしくて、自分にとって汚点でした。

「結婚したくないし、しても幸せになる自信なーい。」

なんて言い続けてきたのは、冗談ではなくって、
「自分の家族」しか知らなかったからです。
家族は孤独を味わうところだと思っていました。

理想と現実がどんどん乖離していく日々と、
人知れず闘ってきたつもりです。


それを変えてくれたのが、
「家族社会学」との出会いでした。

私の憧れていた「家族」というのは、
象徴にすぎないものなのだと知ると同時に、
自分が育ってきた家族には、
現代社会と密接に関わる問題があったんじゃないか、
と気づかされました。

あ、これは私が取り組むべき学問だ、と。


何度も書きますが、
「家族」というのは象徴です。

でも、基本的には誰もが有するコミュニティ。
しかも、最初に出会って、一生切れない縁。

どんなに憎む日があっても、
消すことはできない強い強い色です。


私はそのコミュニティに潜在的な、
「可能性」を堅く信じているのです。

今となっては私も自分の家族にわりと肯定的ですが、
そう思えるようになったのは、3年前くらい。

だから私は、早い年齢から、
「自分の家族が好き」と言える人を増やしたい。
そして、そういう仕組みをつくったり、
自分の生き方で体現したいと思っています。


ただそれは、私にしかできないことではないし、
私自身が考えるの「家族」の意味、
みたいなものの持論もまだ曖昧です。

だから、学問レベルで、理論を駆使して、
誰かの相談にのってあげたりはできない。


だけど、自分が死ぬまでにひとりでも、
「あなたのおかげで、家族が好きになった!」
って心の底から言ってくれたなら、

その瞬間こそがきっと、
私が「家族社会学」に出会った意味になります。


今は、その瞬間に近づく為の日進月歩です。



なぜか結構思い切ったことを書いてしまった。