私はそうではないと思っています。
だけど、今日ある文章に出会って少し考えが変化。
江下雅之さん「ネットワークとコミュニケーション」
抜粋の抜粋なのですが、かなり響きました。
小説であれば登場人物の感情の動きや表情が形容されているけれども、ネットワーク上の〈場〉では、性格設定に至るまで、読む人が自分で想像しなくてはならない。もちろん想像の材料は、その〈場〉に記述された文章しかない。それゆえに、書かれた文章から判断した雰囲気を基準に、書かれた文章のニュアンスを決めるという自己循環過程が発生するのである。
実時間を共有している状況なら、そのつどフィードバック作用によって解釈の方向を修正する余地が生じる。もちろんそこにも誤解の可能性は排除しきれないが、少なくとも自己循環過程とは異なる。相手が眼前に存在する対面状況のコミュニケーションといえども、メッセージの解釈においては相手の存在がこちらの意識内に取り込まれるがゆえに、究極的には自己対話である。しかし、対面では解釈の対象たる表情などは相手が発するものであるのに対し、ネットワーク上のコミュニケーションでは「相手の表情」自体が想像の産物なのだ。そこには自分で想像した相手の表情に、自分自身が反応するという一種のハウリング現象が発生するのである。
何が響いたかって、
私は潜在的に、対面コミュニケーションと
ネットワークコミュニケーションを、
混ぜこぜにしながら生きている気がしたんです。
行間の読み取りに異常な執着をしていたり、
相手に対して、会話の間を読み取ってくれることを、
過剰に期待していたような気がします。
それでいて発するメッセージは言葉だけ。
「表情は変えなくても、汲み取れるでしょ。」
「この部分は省略しても伝わるでしょ。」
そう思い込んで、会話まがいの歪なコミュニケーションを
していた(気になっていた)ような気がしました。
気づいてほしい、と思ってみても、対面状況に、
ネットワーク式コミュニケーションを持ち込んでいては、
察知も理解も共感も、無理に決まっていますね。
想いや感動を、言葉だけでなく表情や語気で表すことは、
Americanizeされているような気がして嫌だったうえに、
余韻を残すことと表現不足を履き違えて、
自分の表現(力)不足を「奥ゆかしさ」と混同していました。
しかし、今の状態は文化圏の差異とかではなくて、
時代につきまとう小さな狂いみたいなものかな、と。
私にもデジタルネイティブの要素があるのかもしれません。
そして今日の出来事は、
このいつしか身に付いた狂いの最後の弊害だと思いたいのですが、
言いたいことをきちんと言える人間でありたいです。
ショック受けてる時に「大丈夫ですよ〜」なんて言って、
本当は泣きそうなこと分かってほしいとか勝手すぎますね。
塾とかだってそう。
現実的にかなり厳しい進路を目指す生徒とかにも、
はっきり言ってあげることができなかったりすることがある。
それなのに、もし諦めて沈んじゃったときには、
こんなこと言ってあげようとか考えてたりしてる。
でも、無理してでも体裁保つこと言ってみないと、
もうこの先の関係が無くなるんじゃないかと思ってるのも事実で、
そういう怯えは人間関係を維持する為には多少必要だと思ってます。
言いたいことが言えなくても幸せな関係もあるし、
そういう制約があるからこそ限られた範囲で楽しめることもある。
つまり「程よく」が大事です、ってことは忘れたくない。
ただ、真逆の感情を見せてその場しのぎをするたびに、
ばかばかしいな、と思っていたのも事実なので、
今日の気づきを機に、せめてもう少しは、
言いたいことをきちんと相手に伝える努力をしたいと思います。
そもそも今日の行動はあまり良くなかった訳ですので、
天罰と教えに出会えたということだと思います。
クリーンな交友関係を目指していきます。
失望させて、ごめんなさいでした。