2011年6月8日水曜日

正しかったか、否か。

お隣の国の高校生が、
最新の電子端末が欲しいあまり、
自分の腎臓を手術の設備のない病院で、
30万円ほどで売ってしまったそうです。

結果的に彼はお金を手に入れることができたので、
最新電子端末、携帯端末を手に入れました。
でも、同時に体調も悪くなってしまっているとか。
正規のお医者さんではなかったのか、
手術を施した人とは連絡が取れないまま。

これは朝刊で読んで衝撃を受けた実話です。


彼が本当に「ほしいもの」ってなんだったんだろう。


電子端末そのものが欲しかったのか、
事物を手に入れたときの充足感が欲しかったのか。


こういうニュースはきっと程度の差こそあれ、
どこにでもありふれたことだと思います。

援助交際とかも似ているんじゃないかと思います。

少し話が逸れますよ。
数年前にヒットした「Deep Love」という携帯小説。
援助交際自体は、ネガティブイメージを抱いていたのに、
物語として援助交際をライフイベントとして見たら、
みんな泣いて、相当話題になった気がします。

こういう風に、
きちんと一人の人生の中に起こりうる「出来事」
として事件を見てみると、何が正しいのかわかりません。


腎臓を売った子どもが浅はかだったのかはわかりません。
むしろ勇気のある子なのかもしれないです。

この選択が正しかったか否かは彼[女]が決めることです。


ただ、あくまで私の考えなのですが、
昔から、生や性を換金することは腑に落ちないんです。
(動物を食べているという事実は置いておき、
人間の命に関して、という暫定で書きます。)

ドナー制度とかは賛成なんです。
むしろ…ちょっとヒヤヒヤしつつ言うと、
私が死んだら、両眼球以外は、
使える物は全て使ってもらうと18の時から約束しています。

そしてそれは無償で、とも約束しています。

もちろんこれは私のこだわりでしかないのですが、
どうしても、生に金額は付けられないと思っています。


このニュースに対して、
何か特別もの申したいわけではないんです。
でも、なんだか悔しいなあ、と思って。

色々と、悔しいなあ、って思ったんです。