2012年1月20日金曜日

亡霊

残された時間を意識するのはいつも、
「気づくには遅い」というタイミングな気がする。


遅延する朝の電車の中で、
ふと、
一番長く一緒に授業をしている子のことを考えていた。


もうすぐ3年という時間が経とうとしている。
そこらのカップルと同等の時間じゃないかと。

お世話になった先輩の妹さんということもあって、
程よい距離感を保ちつつ、ここまできた。


誰でもなんでもそうだけど、
長く一緒に居ると、惰性が滲み出てくる。
「まぁいいか」が増える、というか。

最近、良くも悪くも微睡んじゃってるなー、
なんて思っていたら、電車は動き出して、
乗り換えたりしているうちに、何を考えていたか忘れた。



そして、晴れ晴れとした一日を過ごして、
電車に乗って帰って、夜になって授業をすると、

彼女が年度末で卒業することを告げられた。

そこから、急に、残っている時間が見えた。

朝の電車の中でふと考えたことが、
必然的なものだったような気がした。


微睡んでしまった時間というのは、
記憶から剥がれることは無さそうだけど、
「特別な感じ」が一切無い。

もう少し早く気づいていれば、
少しでも色や質感を足せたのかなと思ってしまった。

普段、授業以外では、
「もし」を唱えることはしないと決めていたのに、
もう本当に自然に、もしも、を考えた。


時間が足りない。

例えば、
飾りの無い「寂しい」を表現する為に、
あれこれ考えて結局捨てるプロセスに要する時間や、
本当の「ありがとう」を伝える為に、
何もかもそぎ落として、まっすぐになる時間。

そういう時間が、足りない。



今年度は、
手を振って巣立ちを見送る局面が凄く多い。

しかも自分にとって、
結構人生に深く関わってくれた級の、
とても大切な人たちが、どこかへ走り出す。
なかにはもう一生会えなくなるだろうという人も居る。
そういう予感って、どうして当たるのか。


一年近く前から旅立ちを教えてくれていた人も居る。
だけど、それでも色々間に合わない。

さようならを笑顔でする勇気は、
泣いて悩んで、ってことを一頻り越えてから生まれる。

越える時間が、無い。


迎える局面の衝撃があまりに大きいことに気がついて、
何を言ったら良いのか。


ほんと、亡霊みたい。