残された時間を意識するのはいつも、
「気づくには遅い」というタイミングな気がする。
遅延する朝の電車の中で、
ふと、
一番長く一緒に授業をしている子のことを考えていた。
もうすぐ3年という時間が経とうとしている。
そこらのカップルと同等の時間じゃないかと。
お世話になった先輩の妹さんということもあって、
程よい距離感を保ちつつ、ここまできた。
誰でもなんでもそうだけど、
長く一緒に居ると、惰性が滲み出てくる。
「まぁいいか」が増える、というか。
最近、良くも悪くも微睡んじゃってるなー、
なんて思っていたら、電車は動き出して、
乗り換えたりしているうちに、何を考えていたか忘れた。
そして、晴れ晴れとした一日を過ごして、
電車に乗って帰って、夜になって授業をすると、
彼女が年度末で卒業することを告げられた。
そこから、急に、残っている時間が見えた。
朝の電車の中でふと考えたことが、
必然的なものだったような気がした。
微睡んでしまった時間というのは、
記憶から剥がれることは無さそうだけど、
「特別な感じ」が一切無い。
もう少し早く気づいていれば、
少しでも色や質感を足せたのかなと思ってしまった。
普段、授業以外では、
「もし」を唱えることはしないと決めていたのに、
もう本当に自然に、もしも、を考えた。
時間が足りない。
例えば、
飾りの無い「寂しい」を表現する為に、
あれこれ考えて結局捨てるプロセスに要する時間や、
本当の「ありがとう」を伝える為に、
何もかもそぎ落として、まっすぐになる時間。
そういう時間が、足りない。
今年度は、
手を振って巣立ちを見送る局面が凄く多い。
しかも自分にとって、
結構人生に深く関わってくれた級の、
とても大切な人たちが、どこかへ走り出す。
なかにはもう一生会えなくなるだろうという人も居る。
そういう予感って、どうして当たるのか。
一年近く前から旅立ちを教えてくれていた人も居る。
だけど、それでも色々間に合わない。
さようならを笑顔でする勇気は、
泣いて悩んで、ってことを一頻り越えてから生まれる。
越える時間が、無い。
迎える局面の衝撃があまりに大きいことに気がついて、
何を言ったら良いのか。
ほんと、亡霊みたい。