眼鏡をかけるのは、
授業中と、教習中と、お化粧が薄いとき。
見えなきゃいけない時と、自分を隠すとき。
なんでも「眼鏡は女を三分下げる」と言いますし。
周りにも目の悪い子って多くて、
裸眼で生活していると言うと驚かれることも珍しくないです。
でも私は日常に眼鏡やコンタクトを使用することを、
拒否、いや拒絶しています。
全てが「はっきり見える」ことが嫌なんです。
世の中、見えなくていいものが多すぎる。
見えなきゃいけないのに見えないものも多すぎる。
目に見えるものだけでは、わからないことが多すぎ。
「見える」ということは、
そういう雑念を介して物事を見なくてはいけない、
という負荷を強いることだとすら思っています。
ちょっと例がずれますが、
大きな氷細工みたいなものを見たとして、
見上げた先のてっぺんの方に、傷があったとします。
そういうのって“見えると”気になるわけで。
見えなければ「綺麗」だな、と思えるものが、
はっきり見えることによって「キズモノ」になる。
その後は「綺麗だと思える“程よい距離”」
を見つけることに必死になりがちで、
対象自体を捉えられないまま時が経っていくことが多い。
そういうのが、なんとなく嫌なんです。
この場合、傷を知ることが真実を知ることとと、
直結しているとは思えないのです。
見えなくてもいいこと、
見ようとしなくていいこと、
そういう事柄が結構世の中にはあると思っていて、
情報過多と言われる時代なんだから、
ある程度の諦念を含有した予防線を張ってもいいじゃん、
と思って生きてきたわけです。
そして、私の場合の予防策が、眼鏡をかけないことなんです。
少なくとも私は、
積極的に「見ない」「見えない」を選ぶことが怖くない。
むしろそういう選択が絶対に必要だと思っています。
うん。ご察しの通り。
普段当たり前に思っていることを、
こうしてわざわざ言葉にしようとするのは、
多分、揺れているからだと思います。
何がなんでも見なくてはいけないものって、
今まで諦めてきたものの中にもあったのかな。
だとしても、見えなかったんだから仕方ないけど。