2011年3月8日火曜日

見える・見えない

眼鏡をかけるのは、
授業中と、教習中と、お化粧が薄いとき。
見えなきゃいけない時と、自分を隠すとき。

なんでも「眼鏡は女を三分下げる」と言いますし。


周りにも目の悪い子って多くて、
裸眼で生活していると言うと驚かれることも珍しくないです。

でも私は日常に眼鏡やコンタクトを使用することを、
拒否、いや拒絶しています。

全てが「はっきり見える」ことが嫌なんです。


世の中、見えなくていいものが多すぎる。
見えなきゃいけないのに見えないものも多すぎる。
目に見えるものだけでは、わからないことが多すぎ。

「見える」ということは、
そういう雑念を介して物事を見なくてはいけない、
という負荷を強いることだとすら思っています。

ちょっと例がずれますが、
大きな氷細工みたいなものを見たとして、
見上げた先のてっぺんの方に、傷があったとします。
そういうのって“見えると”気になるわけで。

見えなければ「綺麗」だな、と思えるものが、
はっきり見えることによって「キズモノ」になる。
その後は「綺麗だと思える“程よい距離”」
を見つけることに必死になりがちで、
対象自体を捉えられないまま時が経っていくことが多い。

そういうのが、なんとなく嫌なんです。

この場合、傷を知ることが真実を知ることとと、
直結しているとは思えないのです。


見えなくてもいいこと、
見ようとしなくていいこと、
そういう事柄が結構世の中にはあると思っていて、
情報過多と言われる時代なんだから、
ある程度の諦念を含有した予防線を張ってもいいじゃん、
と思って生きてきたわけです。
そして、私の場合の予防策が、眼鏡をかけないことなんです。

少なくとも私は、
積極的に「見ない」「見えない」を選ぶことが怖くない。
むしろそういう選択が絶対に必要だと思っています。




うん。ご察しの通り。

普段当たり前に思っていることを、
こうしてわざわざ言葉にしようとするのは、
多分、揺れているからだと思います。

何がなんでも見なくてはいけないものって、
今まで諦めてきたものの中にもあったのかな。

だとしても、見えなかったんだから仕方ないけど。