2011年8月7日日曜日

片隅ってどこだろう

友人に8月7日まで開催されていた
世界報道写真展2011に連れて行ってもらいました。

今年の冬から春にかけてのあるタイミングで、
ふと目にした“世界報道大賞”を受賞作品が、
頭から離れず、行ってみたいと思っていたので、
とっても良い機会でした。ありがとう。


報道というのは多岐に渡るので、
社会問題や環境問題、スポーツや人物など、
多岐に渡る作品が、少数精鋭で並んでいました。


まだ全国で続く写真展なので、
余計なことを書かないように気をつけますが、
少しだけ、具体的な作品について書きます。


まず、シエラレオネの刑務所の写真。
シエラは、アフリカにある小さな国で、
ダイアモンドの生産国として有名で、
映画の舞台になったりしています。

その一方で、世界で平均寿命が最も低い国の1つ、
とされたこともあり、
貧困国という汲み取られ方もあるかもしれません。

私は高校時代から、この国を調べて続けていて、
特に少年兵の(心理)ケアということについて、
わりと人生の中で大きな関心テーマとして持っています。

少年兵を経て、刑務所に行く人も少なくありません。
ですが、刑務所がどんな所かは知りませんでした。

驚きました。
狭さ、脆さ、衛生面の管理不備、全ての環境の悪さに。
衣食住が何一つとして満たされていない状況。
無いに等しいルールのもとに暮らしている人がいます。


この画を見た人の中には、
“悪いことをした人”が行く所は悲惨だ、
などと思う人が居るかもしれませんが、
悪いことをしたくてした訳じゃない人もいます。
(もちろん結果的には悪いことをしたのですが。)

何かを守る為に自分を過酷な場所に導いた人、
そういう人の存在を考えた上で、
あの画を見ていると、
なんだか無力感でいっぱいになりました。


冒頭でこの、シエラの画を見たので、
その後に続く作品は酷なくらい考えさせられました。

中でも、感情の高ぶりがおさえられなかったのは、
ハイチの大地震と津波が発生した時の諸作品。

カメラに向かって何かを叫んだり、
手を伸ばす様な仕草を見せていたり。

なぜかこれらの写真を見たときは、涙が流れました。
理由もなく、色んな感情が錯綜し、泣いていました。

世界中には、色々な出来事や経験があります。
私達は時にそれを「世界の片隅で」という表現を使い、
周りの人に伝えようとします。

でも、この写真展に行って、
純粋に「片隅ってどこだろう」と思いました。
距離は離れていれば、
問題自体も遠いものとなってしまうのかな、と。

それは、もしかしたら、自分の国も震災があり、
世界中で悲しい経験をした人と似た感情を知ったから、
色んな問題に対しての見方が、
少しだけ変わっただけなのかもしれませんが。

きっと片隅なんて、存在しないと思います。
根拠のない、精神論でしか無いけれど。



そして写真展の中で、人の死などをいていくと、
その後に続く人の活躍、自然の美しさの描写には、
なんだか妙な違和感を感じました。

世界中の「素晴らしい」「輝かしい」ことを、
なんとなく否定してしまいそうな気分でした。

そして、なんとなく思う事があります。


今年の世界報道写真大賞を受賞した作品は、
とても辛い目に遭った女性の姿を写したものです。

今の世の中の注目を集めるのは、
悲しみや辛さや痛みを伴う出来事なのでしょうか。

報道とは、“問題”を追う為にあるのでしょうか。
その問題を解決に導く人の環境や、
問題が解決されたあとの素敵な日常には、
魅力が無いとされるのが、「今」なんでしょうか。


私が会場の中で、アスリートや文化人の活躍を、
どことなく否定的に見てしまったのは、
私自身の人間性もあると思いますが、
心のどこかでは「悲惨さ」のようのものに、
魅力を感じてしまっていたのかもしれません。

そしてそれは少なからず社会にも、
汎用性があるような気がしました。
(自分の擁護にしかなってなければ、すみません)



私は楽観主義者で、
とりあえずなんでも肯定して生きていきたいので、
この作品達は少々刺激が強かったんだと思います。
一番目を逸らしておきたいことを、
淡々と並べられて、なかなか辛いものがありました。

だけど、これらは全て真実で、
私達がこれらの出来事から学びこれからの世界を、
もっともっとハッピーなものにしていために、
見ることができてよかったと思いました。

片隅思考からの脱出は、
きっと、必要な行動でした。


はぁ、長くなってしまった。
明日もよい一日にしたいと思います。