2015年7月19日日曜日

上澄み

どうしたもんだか、蝉が鳴いている。

カレンダーがどうでも、雨が続いていても、
蝉が外に出てきたと言うことは、
肌で感じる夏の気配は、どうやら本物らしい。


また、夏が来てしまう。
寂しいと決めつけた季節が、やってくる。

とはいえ、明るい遊びをする友達が増えて、
何年ぶりか、夏が心無しに楽しみかもしれない。


ふと、ぐっと押しつぶされそうな気持ちになるのは、
それってきっと、自分でわざわざそうしてるんだと思う。

私は、罪悪感みたいなものを噛み締めてないと忘れるから、
痛みみたいなものには意図的に触れ返さないと、
同じことを繰り返してしまいそうだから、
意図的に痛々しいところに手をつっこんで、頭を振って、
自分が見てきた嫌な思い出や、汚い気持ちを
くみ上げようとしているような気がする。

でも一方で、私の苦い経験は、
幸いにも限られた時期にしか起きなかったから、
何年も何年もおなじことをしていると、濾過されてしまう。
掌に掬って思い出そうとするけれど、
もう残っている記憶の断片の数が、減っている。

きっと、忘れる時っていうのは、
都合の悪いことから忘れるようになっている気がする。
辛さの真髄や、思い出すだけで頭が真っ白になる様なことから、
細分化して、見えなくしてしまうような気がする。
上澄みだけが残って、
なんて説明しやすい、いかにも「負」らしい部分だけが、
言葉になって、涙になって、重い足取りになる。

何を悲しんで、何を悼んで、何を誇らしく思いたかったか、
思い出すことを、体が拒否している、とでも言えば、
許してもらえるとどこかで思ってしまっている。

本当にあの夏を生きていた私は、
たぶん、もう、影すら、いなくなってるのに。

幸せになりたい、って気持ちに負けたのに。


それはだれも、咎めないと思う。
気楽に生きようとすることを、留める人なんていない。
そもそも、誰にも関係なかったことだし、
人から見れば、どうでもよかったこと。
だからこそ、自分の中では守りたかった、んだと思う。

自分の中に書き留めていた夏のメモ書きが、
毎年チェックリストのように思い起こされる。
私が、私に強いている、夏の礼儀作法。
型通りに、淡々と。


海から帰ってきた後、
静かな家で砂を流すシャワーの音は寂しかった。
でもそうしないと綺麗にならないことを、
もう一度海にいけないことを、ちゃんと知っていた。
小さい頃から、知っていた。

夏は、寂しくて嫌い。

雲が流れるのを見ながら、
川の流れの果てを探しながら、
山の緑を揺らす風に憧れながら、
ひたすらに夏が終わることを願った。
窓越しに、あの静かで穏やかな田舎の家で願っていた。


閉じ込められる。
どこにも行けなくなる。
自分の中から出られなくなる。


また、夏が来てしまう。